子欲居(熊猫さん)的列島社会史論

以下の三つをもって列島社会変革の主要三大メルクマールとする。

  1 「大化の改新」を契機とする列島最初の国家・律令「日本」の成立

  2 「応仁の乱」以降の戦国時代の到来、続く織豊政権江戸幕府の成立

  3 明治維新

 

1 「大化の改新」を契機とする列島最初の国家・律令「日本」の成立以降

大化の改新」を契機とした7世紀末の、いわゆる律令国家の成立をもって、日本最初の国家の成立とすることに関しては、近頃、学界などでも異論がないようである。ちなみに、「日本」という国号を初めて採用したのもこの国家である。それまでの、いわゆる「仁徳天皇」陵に代表されるような河内「王権」にしても、国家形成への過程ではあっても、基本的には原始社会末期段階の産物というべきである。

 内藤湖南は、『応仁の乱について』と題する講演の中で次のように述べている。

 「昔、ごく古くは氏族制度でありましたが、その時分には地方の神主のようなものが多数ありまして、それらが土地人民を持っていたのであります。」

 「神主」とは、いわゆる「豪族」と読み替えればいいと思う。内藤湖南の言うような「神主」(氏族の首長)が「土地人民を持っていた」と言えるような段階は、既に原始社会末期の段階と言ってもいいと思うが、このような当時、原始社会末期段階にあった列島の各氏族部族的共同体に対するゆるやかな支配(貢ぎ物を差し出すような関係)が従来言われてきた「大和朝廷による統一」の実態であったと考えられる。

 実際、『隋書・倭国伝』によると、608年に前年の遣隋使への返礼として、倭国に遣わされた裵世清は、まず百済に渡って海路に出、現在の済州島を南に望みながら、対馬壱岐などを経て、「竹斯国」(筑紫国)に至り、そこから「十余国」を経て、「倭国」の「海岸に達する」のであるが、それに付け加えて「竹斯国より以東は、皆 倭に附庸す。」と記している。「都斯麻国」とか「一支国」と書かれた現在の対馬壱岐が「倭の附庸」とされていないことはさておき、「附庸」とは「(小国が)大国に従う」ことを意味しており、決して倭国の一地方であることを意味したわけではない。これを見ても、当時の倭国の実態というものが分かるだろう。「倭に附庸」していた(おそらく瀬戸内の)「十余国」というのは、だいたい地方の「神主」(豪族)の配下にあった氏族部族的集団と見ていいだろう。

 ともかく、律令国家は、中国の法制に習いながら、このような「神主」(豪族)による土地人民の伝統的支配を「私物化」と糾弾し、各地の「神主」(豪族)を支配層に繰り込むと共に、彼らから土地人民を取り上げ、これを国家が共同体単位ではなく、個人単位で直接支配しようというものであった。

 結果として、従来の共同体は破壊され、共同体内部の階級分化が進行した。かつての共同体の中から新旧の有力者が出現するとともに、過重な負担に耐えかねる農民が出現し、これら農民の「逃亡」は、いわゆる「律令国家の崩壊」と言われる現象を生み出した。これら「逃亡」農民を「庇護」(支配)下においた地方有力者と都の貴族や有力寺社が結び付いた時、荘園公領制の全国展開はもう目の前である。

 「律令国家の崩壊」と言いながら、かえって中央貴族の荘園を通じた全国支配は進行したとも言えよう。しかし、荘園制という中央貴族による私的地方支配が発達していけば行くほど、公的国家の地方支配体制は崩壊していく。もっとも、近頃では「崩壊」するほどの実態が最初からあったのかという議論さえ存在していると聞くが、少なくともそういう議論が出る余地のあるほど、この「律令国家」体制が脆弱なものであったことは間違いない。

 ともかく荘園制の進行にしたがって、律令国家の地方支配体制はどんどん「崩壊」していき、特に地方における社会秩序の維持は、おそらく地方有力者が武装化した武士という「私設警察」(暴力団)に頼らざるを得なくなった。結果として、本来、貴族などに入るべき荘園の取り分が、中間で「ヤクザ」のように介在する武士の懐に入っていったのであり、そのパーセンテージは「1」の時期を通じて、どんどん上昇していくのである。

 それでも、西日本では、中央貴族たちから構成される天皇筆頭政権は、なんとか武士を「飼い慣らし」たようであるが、元々文化的基盤の違った東国ではそうも行かず、やがて東国では「広域暴力団・源組」とも俗称される鎌倉幕府が東国の大小「暴力団」(武士団)をまとめあげ、東国を支配下に置き、京都の朝廷もそれを認めざるを得なくなる。

 ちなみに、筆者は一般に「中世」と言われている時期を一大画期とは認めない。筆者の区分では、中世はせいぜい「1」の後期であり、むしろ「中世」的状況とも言うべき範疇のものと考えている。

 一般に「中世」開幕のメルクマールとされる鎌倉時代にしても、社会の基本基盤はあくまで荘園公領制であり、そこに平安後期と基本的な違いはなく、せいぜい武士の荘園からの取り分が格段に大きくなったぐらいしか認められない。その最たるものが鎌倉幕府による東国支配の承認であろう。

 武士を「新興領主」と見、古い奴隷主貴族に対する新興封建領主たる武士の勃興、これら武士階級による鎌倉幕府による日本全国支配の樹立=すなわち「中世」、日本封建社会の開幕という図式は、確かに俗耳には入りやすいが、列島社会史の実態はもっと複雑な状況を呈しているのである。

 鎌倉幕府は、京都の朝廷の皇位継承等にも干渉し、全国支配への野心を見せたが、鎌倉期を通じて、基本的に勢力圏は東国に限られた。かくして、朝廷(天皇筆頭貴族政権)による西国支配と鎌倉幕府の東国支配という一種の均衡がより、列島の「中世」的状況は、鎌倉期を通じて一定の安定を見せるのであるが、その間にも、社会の最底辺では変革が進行していたようである。特に、宋以降、新たな発展段階を迎えた中国社会から列島にもたらされる巨額の銅銭は、どうも列島社会を早熟に変化させたようであり、それはやがて鎌倉幕府の滅亡、南北朝の大動乱として表面化する。

 事態を暫定的に収拾した室町幕府(「足利組」)は、支配範囲を鎌倉幕府より広域化させ、荘園からの武士の取り分は益々多くなったものの、それでも室町時代を通じて、朝廷の権力は微弱ながらも残存した。一方、鎌倉幕府(「北条組」)と違って、「足利組」の「傘下団体」に対する統制力は弱く、室町時代は「安定」というイメージとはほど遠いのであるが、これも社会の奥底で進行していた変動の結果と取るべきであろう。ともかく、このような変動は、「応仁の乱」を契機に表面化し、列島社会は次の段階に入るのである。

 

2 「応仁の乱」以降の戦国時代の到来、続く織豊政権江戸幕府の成立

 「応仁の乱」の画期性に一早く注目したのは、筆者の知る限り内藤湖南であり、彼はその『応仁の乱について』の中で、ここまで言ってのける。

 「大体、今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」。

 実際、内藤湖南も指摘するごとく、応仁の乱を契機とする戦国時代の間に、公家はもちろん、武家であれ、それ以前の旧勢力はおおかた、その勢力を失った。実際、いまだ戦後変革を経ない内藤湖南の上記講演当時(大正十年、1921年)、「華族」と呼ばれた当時の社会上層部の大部分は旧大名であり、それらの大部分は彼が指摘したごとく、戦国期以降勃興したものたち(徳川将軍自体がそうであったが)であり、それ以前から続くものは薩摩の島津など、辺境部に少数残存していたにすぎなかったのである。

 ただ、もはや「遺物」に過ぎない天皇を始めとする旧「日本」国の勢力(公家)が落魄しながらも京都に残存しており、織田信長はともかく、豊臣秀吉徳川家康が自らの権威付けのために、それらを利用したことが話をややこしくした。実際、秀吉は朝廷から関白に「任ぜ」られ、家康は征夷大将軍に「任ぜ」られて幕府を開いたのである。

 しかし、豊臣天下統一政権下の日本の主権者は豊臣秀吉であり、続く江戸期においては徳川将軍である。かの新井白石なども指摘したとおり、徳川将軍こそが、「日本の皇帝」であり、対外的には「大君」とも称された。天皇は、この時期、三万石の一大名たるに過ぎない。言うならば、戦国期に完全に没落した旧勢力が、その後の「天下統一」の際に、実質的には一大名として、江戸幕府支配下に位置づけられたのである。

 また、現在に直接結び付いていることもあるが、天皇の地位、しいては大方の日本人の歴史認識を決定的にややこしくしたのは、ある意味、明治維新であった。これは当時の新地主・新商人と結びついた薩摩・長州などの西南雄藩の下級武士を中心とした革命であったにもかかわらず、それが既に「遺物」となっていた天皇を担ぎ出し、「王政復古」、「本来」天皇のものであった政権を徳川幕府から取り返すのだという「理念」(「尊皇」)を掲げたのである。しかし、その実質は江戸幕府打倒の革命運動(「攘夷」という当時の民族独立保持運動の側面も閑却できないが)であり、実際、明治維新を伝えた清国の書籍などは、「代々国主が握っていた政権を『ミカド』が奪ったのだ」と書いているものもあるという。

 ともかく、列島は明治維新以降、「日本古来の伝統」という「化けの皮」を被りながらも、近代資本主義社会へと脱皮していく。しかし、そういった「化けの皮」を必要としたくらい、革命というか近代化は不完全であり、「2」以来の、いわゆる封建制の問題が完全に払拭されるには、戦後変革を待たざるを得なかった。

 このような「2」と「3」の一種の継続性を考えた時、むしろ「1」と「2」の差異が内藤湖南の指摘するがごとく際だつのである。

 つまり、戦国期において、一端崩壊した「日本」国は、戦国期を通じて、再び下から再編統合されるのであり、まさに内藤湖南の指摘するごとく、これは「日本全体の身代の入れ替わり」であった。「2」から「3」への以降などは、せいぜい同じ日本国内の革命に過ぎないのであるが、「1」から「2」への移行というものは、革命どころの騒ぎではなく、「2」以降、現在に続く日本が成立していくのであり、確かに「1」以前のことは、「外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬ」という内藤湖南の言葉も真実味を帯びてくるのである。はっきり言えば、国号こそ同じ「日本」であれ、「1」の「日本」と、「2」「3」の日本は違う国といってもよい。筆者が、律令「日本」と「1」の段階の日本国を「 」付けにしたのは、そういう考えからである。

 

3 まとめ

 正直言って、荘園公領制の実態、更にはそれがどのようにして崩壊し、江戸時代に現れるような農村並びにそれに対する領主支配体制が出現したのか、そして江戸期の農村支配体制の中で、どのようにして農村の分化が起こり、戦前まで続いていたような地主制が生じ、発展したか、というような問題に関して書くには作者はまだまだ研究というか、学習不足である。

 ただ言えることは、「1」の時期と「2」「3」の時期の隔絶であり、荘園公領制下の農民と、江戸時代初期の幕藩体制下、更には戦前まで続く地主制下の農民との間には、大きな差異があると言うことである。

 これは武士についても言えることで、「1」の時期の武士と「2」の時期の武士は大きな差異がある。筆者などは「1」の時期の武士は荘園体制下に巣くう「暴力団」のような集団であり、これが「2」の時期になって完全に凋落してしまい、替わって初めて領主と言えるような武士が勃興していったものと考える。もちろん、これは社会下層の農民の動きと連動しているのであるが。

 天皇にしても、古代の一時期を除いて、天皇が親政を行うと言うことは日本にはなく、貴族政治の時代には藤原氏が、武家政治の時代には、それぞれ鎌倉、室町、江戸などの幕府が日本の実権を握っていたという歴史観がはびこっているが、天皇個人の実権はいざ知らず、天皇筆頭政権は権力をどんどん狭められながらも、「1」の時期を通じて存続していたのであり、武家が完全に日本の実権を握り、名分上はともかく、天皇を実質一臣下のようにしてしまったのは「2」の江戸期の問題に過ぎない。

 ついでに言えば、「藤原氏が実権を握った」などというが、一定段階以降、ほぼ聖武天皇藤原不比等の娘から生まれ、別の不比等の夫人から生まれた光明子光明皇后を妻とした)以降、天皇家の実質は母系から言えば、基本的に藤原氏(それ以前は実質的には蘇我氏)と言う他はない。

 更に根本的な違いは、前章でも述べたが、内藤湖南などが「2」の時期に「(現在の)われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史」が始まるのであり、下手をすると「それ以前のことは外国の歴史と同じくらい」でしかないと言うように、「2」以降、本当の意味で現在の日本の国の歴史が始まるのであり、それ以前は、「日本」と言っても、現在の日本とは別の国と言ってもいいぐらいの隔絶があったと言うことである。

 我々は、非常に単線的な日本歴史を学校などでも教えられてきており、実際、世間にもそのような「単線史観」が広まっている。しかし、そのような単線的な日本がなんとか成立したのは、「2」以降の問題であり、それまでは律令体制に始まる「日本国」も、その(列島支配の)実態はさておいても、その残存物も実際には「2」の初期の戦国期に完全に崩壊している。しかも、いわゆる「中世」期には、鎌倉幕府のように東日本の支配権を及ぼす政権が出現したり、南北朝期には天皇さえ同時に二人存在していたのである。

 日本(大和)民族と言えるような文化的一体性にしても、果たして「1」の時期にそのようなものが存在していたかどうかは疑問であり、中国文化の流入によってようやく形成されだした日本(大和)文化も、まだ都の貴族のものでしかなく、それが何とか本土に広がり、アイヌ琉球と並立する大和民族(いわゆる日本人)※というものが形成されたのも「2」の時期であり、「1」の時期には、まだまだ列島全土は本土さえも、さまざまな民族的要素を抱えており、特に東日本と西日本の差異は今以上に大きかったものと考えられる。

 筆者の論には、まだまだ研究不足の面もあるが、従来の単線日本史観ではなく、複線的に列島史をとらえる必要があると筆者は考えるのである。それで言えば、他の文章でも書いたが、戦国時代に入る前の列島というのは、ちょうど雲南などと同じような中国の辺境部とでも言うべき地域であり、戦国以降の社会発展(これも列島の内在的発展と中国から渡来する新文化との両方の要因を考えねばならない)によって初めて、大小の差はあれ、中国とも対等な日本という政治的文化的実態が誕生したと考えるのである。

 

2007120